お歳暮ギフトフェア

輸入洋食器店アイン お宝倉庫
大阪市にある洋食器、輸入食器専門店のアイン
ウェッジウッド、マイセン、バカラ、ロイヤルコペンハーゲンなど
様々な食器を販売しております
  • アウガルテン 【ウィーンナーローズ】  ティーC/S・シューベルト型 45%Off
    アウガルテン 【ウィーンナーローズ】  ティーC/S・シューベルト型 45%Off
    23,760円

    本体価格: ¥40.000

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    通常41%Off  お歳暮ギフト ( 本日~12/10)   45%Off   

    アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。

    お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。

    主だったお店を調べましたが  お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりしてさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !

    今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナー(貴族の出自)と貿易部長女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
    AU スクエアプレート (2

    花拡大
    ヨーロッパ大陸のバラは ウィーン様式が元祖で 花と茎枝と葉が自然に描かれ ロココに乗り遅れたマイセンでも 同列です。
    島国英国は 連ねたバラの両端に葉を添え花のみの美しさを引き立てるのが主流で 大陸とは1線を画しております。
    20151017120636_00001.jpg

    このシリーズは  アウガルテン開窯の年 1923年に ウィーン宮廷用であった オールドウィンナーローズを 元に 作られました。カントリー調のバラは よりデザイン化され 一回り大きく 後作らしき洗練が 見て取れます。オールドウィンナーローズの ピンクのラインの位置を 口縁の頂上に グリーンに替えて移し 簡略化した分 価格を下げています。

    マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで  時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。
    『玉座のナポレオン1世』 (アングル画 1806年 軍事博物館蔵)
    『玉座のナポレオン1世』 (アングル画 1806年 軍事博物館蔵)
    神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ 盛んになりました。

    AU ウインナーローズ ティー (1) 他店
    今作 他店 色浅く カップ カーブ甘く ソーサー深く 鈍重 

    AU ウインナーローズ ティー (1)
    旧作 当店 色深く  カップ カーブ深く ソーサー浅く 優雅

    ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。

    日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。 

    余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。
     
    「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
    「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
    「マリアテレジアは 女帝であったのか?」      
    「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。

    「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。
    「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」 加筆しました。
    「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」 
    「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
    「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。

    当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 蒐集した現物と照らし合わせ 研鑽します。文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正反対のものまで 乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張もいただけません。幸い 当店には 四半世紀にわたり 蒐集してきた 膨大な実物がございます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破します。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それにはそれなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 蒐集して来た強い味方
    さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という人には与しません。えてして そういう人は  まったく方向違いの批判をします。当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えております。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できるようになったのではと 自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ちしております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯 返答に努めます。

  • アウガルテン 【オールドウィーンナーローズ】  コーヒーC/S・シューベルト型  0.2L 44%Off
    アウガルテン 【オールドウィーンナーローズ】  コーヒーC/S・シューベルト型  0.2L 44%Off
    33,264円

    本体価格: ¥55.000


    小さい写真を クリックすると 拡大します。   

      
    通常43.9%Off  お歳暮ギフト ( 本日~12/10)   44%Off         

    ユーロなき シリング時代に仕込んだ お熟成品が売り切。 再入荷

    アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
    うたい文句を死守するため お熟成品をまだ沢山持ってるので 再入荷品は 赤字

    お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。

    主だったお店を調べましたが  お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !

    今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナー(貴族の出自)と貿易部長女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
    AU スクエアプレート (2

    島国様式                                  
    20151017120636_00001 - コピー花拡大 - コピー
    ウィーン様式


    ヨーロッパ大陸のバラは ウィーン様式が元祖で 花と茎枝と葉が自然に描かれ ロココに乗り遅れたマイセンでも 同列です。
    島国英国は 連ねたバラの両端に葉を添え花のみの美しさを引き立てるのが主流で 大陸とは1線を画しております。

    オスマン帝国 スレイマン1世 第一次ウィーン包囲
    第一次ウィーン包囲網
    当時のフランス王はフランソワ1世で、オーストリアとイタリアの利権を激しく争っており、ローマ教皇及びイタリア諸都市を巻き込む大紛争に発展していた。これがイタリア戦争である。1519年にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が亡くなると、フランソワはマクシミリアン1世の孫でハプスブルク家の当主カール(スペイン王カルロス1世。後の神聖ローマ皇帝カール5世)に対抗して次の皇帝を決める皇帝選挙に出馬する事になった。もしカールがスペイン王と同時に神聖ローマ皇帝を兼ねた場合、フランスは東西からハプスブルクの勢力に挟み撃ちにされる危険性が非常に高かったからである。しかしこの目論見は失敗し、カールが帝位を獲得する。結果、先の懸念は現実の物となりフランスはハプスブルク家によって東はオーストリア、西はスペインから挟まれてしまう格好になった。この事態に対して、敵の敵は味方とばかりにフランソワ1世はドイツ国内のザクセン選帝侯などのルター派勢力、ローマ教皇クレメンス7世などカール5世の敵対勢力と次々に手を結び包囲網を築きあげていった。その中でも最も強い軍事力を持っていたのがオスマン帝国である。これには挟み撃ちになったフランスの起死回生の策として、フランスとオスマン帝国が同盟を結ぶことによって逆にオーストリア本国を挟み撃ちにする狙いがあった。第一次ウィーン包囲は、1529年、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、2ヶ月近くに渡って神聖ローマ帝国皇帝にしてハプスブルク家の当主、オーストリア大公であるカール5世の本拠地ウィーンを取り囲んだ包囲戦。オーストリア軍の頑強な抵抗によりウィーンの陥落だけは免れた。ここに至るまでの当時の国際関係は非常に複雑であり、この戦い自体は1494年から続けられていたイタリア戦争の一環として、そのハイライトとして行われた戦いである。また、ドイツ国内での宗教改革も複雑に絡んでいた。歴史的に見れば、この包囲戦の結果、オスマン帝国のバルカン半島の領有が確定し、その支配は17世紀終わりまで続く。ハンガリー王国はその領土の大部分を削られ、その国土の回復は18世紀まで待たねばならなかった。またイスラームの脅威を広くヨーロッパ全土に知らしめる事にもなった。

    ピカピカの 新品です。 現品 即納

    シェーンブルン夜
    シェーンブルン宮殿 宮廷専用
    このシリーズは ウィーン宮廷専用として ウィーン窯で作られておりました。第1次世界大戦で ハブスブルグ王家が退位するまで 一般には 禁じられておりました。これを元に 1923年 創窯のアウガルテンにて ウィンナーローズが 生まれました。

    コーヒー N
    今作 他店 これ名前は同じですが別物 ?

    AU オールドウインナーローズ コーヒー (1)
    旧作丁寧作り 品質に拘る当店 プロ向け  カップ ソーサー カーブ深く 優雅

    ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。

    マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで  時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ 盛んになりました。

    日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。

    余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名
    です。

    「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
    「太陽王の孫ルイ16世 曾孫に」
    「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
    「マリアテレジアは 女帝であったのか?」      
    「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。

    「欧州磁器戦争史  (ウィーン・アウガルテン窯)  秘法漏洩 2,」 詳しくは コチラをクリック してください。
    「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」
    「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」 
    「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
    「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。

  • アウガルテン 【オールドウィーンナーローズ】  ティーC/S・シューベルト型 43%Off
    アウガルテン 【オールドウィーンナーローズ】  ティーC/S・シューベルト型 43%Off
    33,858円
    本体価格: ¥55.000

    小さい写真をクリックすると 拡大します。

       
    通常42%Off  お歳暮ギフト ( 本日~12/10)  43%Off      

    アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。

    お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。

    主だったお店を調べましたが  お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !

    今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナー(貴族の出自)と貿易部長女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
    AU スクエアプレート (2

    モスリンのシュミーズ・ドレスを着た王妃マリー・アントワネット1783年
    モスリンのシュミーズ・ドレスを着た薔薇の王妃マリー・アントワネット ルブラン夫人 1783年
    エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755年 - 1842年)は、フランスの画家。18世紀で最も有名な女性画家であった。1776年に、画家で画商であるジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚した。彼女は当時の貴族の多くを肖像画に描き、画家としての経歴を開花させた。マリー・アントワネットの肖像画を描くためヴェルサイユ宮殿に招かれた。王妃は大変喜び、向こう数年間ヴィジェ=ルブランは王妃や子供達、王族や家族の肖像画を数多く依頼された。王妃とヴィジェ=ルブランは画家と王妃を超えた友人関係を築いていたといわれる。

    島国様式                                  
    20151017120636_00001 - コピー


    ウィーン様式

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    ヨーロッパ大陸のバラは ウィーン様式が元祖で 花と茎枝と葉が自然に描かれ ロココに乗り遅れたマイセンでも 同列です。
    島国英国は 連ねたバラの両端に葉を添え花のみの美しさを引き立てるのが主流で 大陸とは1線を画しております。

    オスマン帝国 スレイマン1世 第一次ウィーン包囲
    第一次ウィーン包囲網
    当時のフランス王はフランソワ1世で、オーストリアとイタリアの利権を激しく争っており、ローマ教皇及びイタリア諸都市を巻き込む大紛争に発展していた。これがイタリア戦争である。1519年にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が亡くなると、フランソワはマクシミリアン1世の孫でハプスブルク家の当主カール(スペイン王カルロス1世。後の神聖ローマ皇帝カール5世)に対抗して次の皇帝を決める皇帝選挙に出馬する事になった。もしカールがスペイン王と同時に神聖ローマ皇帝を兼ねた場合、フランスは東西からハプスブルクの勢力に挟み撃ちにされる危険性が非常に高かったからである。しかしこの目論見は失敗し、カールが帝位を獲得する。結果、先の懸念は現実の物となりフランスはハプスブルク家によって東はオーストリア、西はスペインから挟まれてしまう格好になった。この事態に対して、敵の敵は味方とばかりにフランソワ1世はドイツ国内のザクセン選帝侯などのルター派勢力、ローマ教皇クレメンス7世などカール5世の敵対勢力と次々に手を結び包囲網を築きあげていった。その中でも最も強い軍事力を持っていたのがオスマン帝国である。これには挟み撃ちになったフランスの起死回生の策として、フランスとオスマン帝国が同盟を結ぶことによって逆にオーストリア本国を挟み撃ちにする狙いがあった。第一次ウィーン包囲は、1529年、スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、2ヶ月近くに渡って神聖ローマ帝国皇帝にしてハプスブルク家の当主、オーストリア大公であるカール5世の本拠地ウィーンを取り囲んだ包囲戦。オーストリア軍の頑強な抵抗によりウィーンの陥落だけは免れた。ここに至るまでの当時の国際関係は非常に複雑であり、この戦い自体は1494年から続けられていたイタリア戦争の一環として、そのハイライトとして行われた戦いである。また、ドイツ国内での宗教改革も複雑に絡んでいた。歴史的に見れば、この包囲戦の結果、オスマン帝国のバルカン半島の領有が確定し、その支配は17世紀終わりまで続く。ハンガリー王国はその領土の大部分を削られ、その国土の回復は18世紀まで待たねばならなかった。またイスラームの脅威を広くヨーロッパ全土に知らしめる事にもなった。

    ピカピカの 新品です。 現品 即納

    シェーンブルン
    シェーンブルン宮殿 宮廷専用
    このシリーズは ウィーン宮廷専用として ウィーン窯で作られておりました。第1次世界大戦で ハブスブルグ王家が退位するまで 一般には 禁じられておりました。これを元に 1923年 創窯のアウガルテンにて ウィンナーローズが 生まれました。

    ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。

    マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで  時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ 盛んになりました。

    日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。

    余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。

    「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
    「太陽王の孫ルイ16世 曾孫に」
    「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
    「マリアテレジアは 女帝であったのか?」      
    「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。

    「欧州磁器戦争史  (ウィーン・アウガルテン窯)  秘法漏洩 2,」 詳しくは コチラをクリック してください。
    「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」
    「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」 
    「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
    「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。

  • 通常30%Off  お歳暮ギフト ( 本日~12/10) 35%Off
    通常30%Off  お歳暮ギフト ( 本日~12/10) 35%Off
    428,220円

    本体価格: ¥610,000

     

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    通常30%Off  お歳暮ギフト ( 本日~12/10) 35%Off    

    アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。

    お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。

    主だったお店を調べましたが  真正な【カレッジ】は見当たりません。したがってお熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !

    今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナー(貴族の出自)と貿易部長女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
    AU スクエアプレート (2

    ハプスブルグ王家の 秘宝コレクション「カレッジ(勇気)」 アウガルテン社 マスターカタログから
    AU カレッジ コーヒー (5)

    今作のカレッジは 反対面は ズンベラボウで 2頭のグリフィンがいません。カップ正面の細密な金彩アンセミオンも省略されています。深いソーサーにも6頭のグリフィンと6つの金彩絵が省略されております(真正カレッジ グリフィン10頭 金彩絵 9画。今作カレッジ グリフィン2頭 金彩絵 1画)。把手周りの始末も 転写を疑わせる雑な仕上げです。金彩も どうやら本金でなく 黒も漆黒でなく一目瞭然 貴賓に欠けます。
    AU カレッジ コーヒー (1) 今作
    AU カレッジ コーヒー (2) 今作
    AU カレッジ コーヒー (3) 今作
    AU カレッジ コーヒー (4) 今作
    今作 他店 この品格のなさは如何ともしがたい代物です。

    名前は同じカレッジですが 似て非なるものです。当店の真正カレッジは 今作の10倍の値段でもおかしくありません。何よりもこの真正なカレッジの新品は 世界広しといえど オーストリア応用美術博物館MAKと アインにしかありません。お熟成に懸ける アインの真骨頂を体現している逸品の1つです。

    その表敬訪問の機会 名だたる ハプスブルグ王家の 秘宝コレクションから 最高の この「カレッジ(勇気)」を 6客復刻して頂きました。真紅に描かれているのは ギリシャ神話外伝の黄金の守護神 グリフィン(鷲の翼と上半身に ライオンの下半身。 伝説上の動物)で 漆黒かと見紛う手描き彩色に 見事なギルディング(金彩装飾)。 ネオクラシックに 高貴なウィーンスタイルを確立した ゾルゲンタール男爵が 著名な皇室専属の磁器絵付師,ガラス絵付師アントン・コートガッサー,細密画師等を集結し 他に並び無き 美術磁器「カレッジ(勇気)」を完成。その価値たるや 如何許りか 推して知るべし!

    グリフィンには 黄金の守護と もう一つの役目 ゼウスやアポロン等の天上の神々の車を 引くことがあり 同じ役目の馬を 目の敵にしており、馬を喰うと言われる。そこから不可能なことを表すのに「グリフィンと馬を交配させるようなもの」という言葉が生まれた。また別の伝承には グリフィンが殺すのは牡馬だけであり、牝馬は殺さず犯して 仔を産ませる それをヒッポグリ(グリフィンと雌馬の間に生まれた、鷲の上半身に馬の下半身を持つ生物)という。

    AU カレッジ コーヒー (1)
    AU カレッジ コーヒー (2)
    AU カレッジ コーヒー (3)
    AU カレッジ コーヒー (4)
    AU カレッジ コーヒー (拡大)
    当店 マスターカタログ掲載 オーストリア応用美術博物館収蔵に同等         
    ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。

    マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで  時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家程の資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ盛んになりました。

    日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。
    余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっているこ事でも有名です。

    「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
    「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
    「マリアテレジアは 女帝であったのか?」      
    「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。

    「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,」 詳しくは コチラをクリック してください。
    「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」 加筆しました。
    「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」 
    「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
    「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。

    当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 蒐集した現物と照らし合わせ 研鑽します。文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張もいただけません。幸い 当店には 四半世紀にわたり 蒐集してきた 膨大な実物がございます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。
    実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破します。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それにはそれなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 蒐集して来た強い味方さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という人には与しません。えてして そういう人は  まったく方向違いの批判をします。
    当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えております。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できるようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ちしております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。

     

  • アウガルテン 【フラグランス5096】 コーヒーC/S・シューベルト型 50%Off
    アウガルテン 【フラグランス5096】 コーヒーC/S・シューベルト型 50%Off
    43,200円

    本体価格: ¥80.000

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    通常48.5% Off  お歳暮ギフト ( 本日~12/10) 50%Off
       
    アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。

    お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。

    旧代理店名 フラグランス(後に簡略版を スモールフラワー) アウガルテン名 スキャタードフラワー
    主だったお店を調べましたが スキャタードフラワー(簡略版の スモールフラワー)のティーC/Sを取り扱っている お店がありまして それより お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で 誰も手に入らない美品があるお熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !

    今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナー(貴族の出自)と貿易部長女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。  
    AU スクエアプレート (2

    ドラセナ・フレグランス
    幸福の木
    幸福の木
    緑の葉色に縞模様のコントラストが美しい観葉植物で、人気があります。
    名前の由来は、ハワイでは、家の前のドラセナは 幸福を呼ぶとの言い伝えがあり、「幸福の木」という名前がついたそうです。
    縁起がよく、幸せになりますようにとの願いを込めて、新築祝いや開店祝いなどスタートの贈り物に喜ばれる観葉植物です。観葉を愛でて 10年も経て 突然 花を忘れたころ咲くのです。花を期待してなかった分 開花の喜びは一入です。強い匂いですが 苦節10年 許せます。

    香水女性 フラグランス
    香水女性 フラグランス

    帝立ウィーン窯の最後の徒花 ビーダーマイヤーの元になった 散らし小花柄
    ビーダーマイヤー(市民革命)の名のとおり お花は フラグランスより簡素化されており 現行の スモールフラワーは その簡素化された 小花であり フラグランスに 似ておりますが 似て非なるものです。2000年 制作の真正フラグランス お熟成アインにしかありません。

    過日あるお客様から 次のようなメールをいただきました。
    「先日は アウガルテンの フラグランスのティーカップを お送りいただき ありがとうございました。大変 奇麗なお品で 喜んでおります。ところで 他のインターネットのショップなどを見ていて知ったのですが、アウガルテンには スモールフラワーという シリーズもあるようです。フラグランスと 非常に良く似ていると思うのですが、希望小売価格が がかなり違います。この二つの違いとは 何なのでしょうか?アイン様は アウガルテンの商品を 沢山扱ってらっしゃるので、教えて頂きたくメールさせて いただきました。」

    これに対し当店が 次のような説明をいたしました。
    「スモールフラワーは その名のとおり 小さな花が 描かれております。それは ビーダーマイヤーの小花と 同じです。ビーダーマイヤーは フラグランスのお花の 蕾を取ったりして 一回り小さな花を 描いております。それでも ブルーの帯や金彩で 白場が 小さく 花が小さくても タッチが軽くても 釣り合いが取れており 美しいです。スモールフラワーは 写真で見る限り それなりに美しいのですが フラグランスを 見てからでは 白場が多くて 少し華やぎに欠けるかなと 寂しく感じます。しかし それは好き好きで アウガルテンの 名工が フラグランスの後に 安くあげようとして出されたもの 私ごときが 批判がましくは 言えません。間違いの無いのは フラグランスのお花は 丁寧で 時間を掛けて描かれております。 高くて当たり前ですが お熟成洋食器店ならこその フェア価格です。」

    フラグランスと スモールフラワーは 一目瞭然 似て非なるものです。ただ 品番が同じなのが 気になります。(本当は 理由を知っておりますが 書けません。当店のサービス価格が 安いはずのスモールフラワーのサービス価格より 安くになっており 真相を明かすと 他に迷惑がかかるからです。)
    AU スキャタードフラワー ティー
    スキャタードフラワー(実は 簡略版 スモールフラワー) ティー

    AU フラグランス コーヒー (0)             
    フラグランス コーヒー
            
    AUビーダーマイヤーコーヒー - コピー2
    参考ビーダーマイヤー コーヒー           

    ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。

    マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで  時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家程の資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ盛んになりました。

    日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。

    「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
    「太陽王の孫ルイ16世 曾孫に」
    「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
    「マリアテレジアは 女帝であったのか?」      
    「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 
    「ビーダーマイヤー」 加筆しました。

    「欧州磁器戦争史 アウガルテン (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,」 詳しくは コチラをクリック してください。
    「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」
    「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」 
    「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
    「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。

    当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 研鑽します。 文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正 反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。 洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張も いただけません。幸い 当店には 四半世紀にわたり 収集してきた 膨大な実物がござい ます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。
    実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破し ます。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには 当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それには それなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 収集して来た強い味方 さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という 人には与しません。えてして そういう人は  まったく方向違いの批判をします。 当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えており ます。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロ ッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や  伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できる
    ようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ち しております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
     

  • アウガルテン 【フラグランス】 ティーC/S・シューベルト型 50%Off
    アウガルテン 【フラグランス】 ティーC/S・シューベルト型 50%Off
    43,200円

    本体価格: ¥80.000


    小さい写真をクリックすると 拡大します。 


     
    通常48.5%Off  お歳暮ギフトフェア ( 本日~12/10) 50%Off
       

    アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。

    お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。

    旧代理店名 フラグランス(後に簡略版を スモールフラワー) アウガルテン名 スキャタードフラワー5096
    主だったお店を調べましたが スキャタードフラワー(簡略版の スモールフラワー)のティーC/Sを取り扱っている お店がありまして それより お熟成アインが一番お安いです。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告に金をかけ ポイントで釣ったりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で 誰も手に入らない美品があるお熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !

    今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナー(貴族の出自)と貿易部長女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
    AU スクエアプレート (2

    ツンベルギア・フラグランスフラグランスオブフレグランシス
    ツンベルギア・フラグランス          フラグランスオブフレグランシス             
    ツンベルギア・フラグランス インドおよびスリランカが原産です。蔓性で1.8~2.4メートルほどよじ登ります。葉は濃い緑色で、ベルベットのような手触りです。夏から初秋にかけて、真っ白な花を咲かせます。花には芳香があり、ハチやチョウを引き付けます。
    フラグランスオブフレグランシス
    大輪の薔薇

    香水女性 フラグランス2
    香水女性 フラグランス 香りに群がる男たち

    帝立ウィーン窯の最後の徒花 ビーダーマイヤーの元になった 散らし小花柄
    ビーダーマイヤー(市民革命)の名のとおり お花は フラグランスより簡素化されており 現行の スモールフラワー(後のスキャタードフラワー)は その簡素化された 小花であり フラグランスに 似ておりますが 似て非なるものです。
    2000年 制作の真正フラグランス お熟成アインにしかありません。

    過日あるお客様から 次のようなメールをいただきました。
    「先日は アウガルテンの フラグランスのティーカップを お送りいただき ありがとうございました。大変 奇麗なお品で 喜んでおります。ところで 他のインターネットのショップなどを見ていて知ったのですが、アウガルテンには スモールフラワーという シリーズもあるようです。フラグランスと 非常に良く似ていると思うのですが、希望小売価格が がかなり違います。この二つの違いとは 何なのでしょうか?アイン様は アウガルテンの商品を 沢山扱ってらっしゃるので、教えて頂きたくメールさせて いただきました。」

    これに対し当店が 次のような説明をいたしました。
    「スモールフラワーは その名のとおり 小さな花が 描かれております。それは ビーダーマイヤーの小花と 同じです。ビーダーマイヤーは フラグランスのお花の 蕾を取ったりして 一回り小さな花を 描いております。それでも ブルーの帯や金彩で 白場が 小さく 花が小さくても タッチが軽くても 釣り合いが取れており 美しいです。スモールフラワーは 写真で見る限り それなりに美しいのですが フラグランスを 見てからでは 白場が多くて 少し華やぎに欠けるかなと 寂しく感じます。しかし それは好き好きで アウガルテンの 名工が フラグランスの後に 安くあげようとして出されたもの 私ごときが 批判がましくは 言えません。間違いの無いのは フラグランスのお花は 丁寧で 時間を掛けて描かれております。 高くて当たり前ですが お熟成洋食器店ならこその フェア価格です。」

    フラグランスと スモールフラワーは 一目瞭然 似て非なるものです。ただ 品番5096が同じなのが 気になります。(本当は 理由を知っておりますが 書けません。当店のサービス価格が 安いはずのスモールフラワーのサービス価格より 安くになっており 真相を明かすと スモールフラワーを扱っている同業者に迷惑がかかるからです。)

    AU スキャタードフラワー ティー
    今作  スキャタードフラワー5096 (スモールフラワーよりチョイまし)花が小さい

    AU フラグランス ティー 1
    旧作 フラグランス5096 花が大きい
                  
    AU ビーダーマイヤー ティー (1) - コピー  
    参考ビーダーマイヤー          

    ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。

    マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで  時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家程の資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ盛んになりました。

    日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。

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    フランス・オーストリア・ロシア三帝アウステルリッツ会戦 ナポレオンが完勝し 多額の賠償金と領土の割譲を受け 第三次対仏大同盟は崩壊。
    フランス・オーストリア・ロシア三帝アウステルリッツ会戦
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    神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家ほどの資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ 盛んになりました。

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    余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。

    第二次ウィーン包囲 
    オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン(1663年 - 1736年)は、オーストリアに仕えた名高き軍人で、政治家でもある。プリンツ・オイゲンの呼び名で知られる。サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれた。
    オーストリアにおけるオイゲンの軍歴は、1683年の第二次ウィーン包囲に始まったオスマン帝国との戦争(大トルコ戦争)から始まった。長期に渡って続いたこの戦争においてオイゲンはロレーヌ(ロートリンゲン)公シャルル5世に従いハンガリー戦線で活躍し、1687年のモハーチの戦いでは騎兵隊を指揮して手柄を上げた。この戦いでオスマン帝国軍がハンガリーに勝利した結果、ハンガリー領は三分割され ハプスブルク家が統治する王領ハンガリー(1526年 - 1867年)は残された。
    第二次ウィーン包囲(なお、この包囲戦について、ルイ14世は親オスマン派だったため救援を送らなかったが、キリスト教徒防衛のため自発的に参加するフランス貴族もいた。その中にプリンツ・オイゲンも含まれていて、従兄に当たるルートヴィヒ・ヴィルヘルムの下で従軍して竜騎兵隊長に任命され、やがてオーストリアを代表する名将へと成長していった。)は、オスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍は 神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した(これに、当時オスマン帝国とポドリアを巡って争っていたポーランド国王ヤン3世が応え、ヤン3世ソビエスキはポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。
    ローマ教皇に勝利の手紙を送るヤン3世
    ローマ教皇に勝利の手紙を送る ヤン3世ソビエスキ
    ロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯、らも救援軍に合流した。)中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり(到着した9月12日にオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いたヤン3世は 夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を正確に把握していたポーランド・リトアニア共和国軍精鋭の有翼重装騎兵「フサリア」の3000騎はオスマン軍陣地の中央突破を敢行しこれを分断、そのままムスタファの本営までまっすぐ突撃し大混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。)、この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。以後 両国の間は平和であったが、オスマン帝国はスルタン・アフメト3世が対外戦争に乗り出し、1710年にピョートル1世のロシア・ツァーリ国相手に大北方戦争で勝利、1711年のプルト条約でアゾフを取り戻し、1714年にヴェネツィア共和国とペロポネソス半島を巡り争うと(オスマン・ヴェネツィア戦争)、オーストリアはオスマン帝国の脅威を取り除くためヴェネツィア側に立ち、1716年に宣戦布告した。戦争準備は1715年からオーストリア軍総司令官のプリンツ・オイゲンが中心として進め、オーストリアは神聖ローマ帝国諸侯とローマ教皇クレメンス11世からの資金援助と援軍派遣を受けていた他、1716年にイギリスと同盟を結び背後のスペインを牽制、バルカン半島出兵への準備を整えていった。一方のオスマン帝国も周辺国の軍勢を動員してオーストリアを迎え撃つ体勢を打ち立て、ベオグラードを中心に守備を固めていった。1716年7月、オイゲンを司令官としたオーストリア軍は首都ウィーンを出発、ドナウ川に沿ってバルカン半島の南へ進軍していった。一方オスマン帝国側は、アフメト3世の娘婿である 大宰相アリ・パシャが15万の軍勢でベオグラードから北上して、ベオグラードへの前線基地となるペーターヴァルダインを包囲したが、オイゲンは8月にペーターヴァルダインに到着すると、守備部隊の援護と合わせてオスマン帝国軍を撃破した(ペーターヴァルダインの戦い)。ベオグラード包囲に必要な船が不足していたため、オーストリアは 軍を北へ向けてティサ川を北上、トランシルヴァニアへ進軍してティミショアラを落とし、11月にウィーンへ引き上げた。アリ・パシャはペーターヴァルダインの戦いで戦死したため、ハジ・ハリル・パシャが後任の大宰相に就任してオスマン帝国軍の再編成に追われた。翌1717年5月、オイゲン率いるオーストリア軍は再びバルカン半島を南下、6月からベオグラード包囲戦を開始した。ベオグラードはドナウ川と支流のサヴァ川に囲まれた包囲困難な都市であり、オーストリア軍はガレー船を中心とした艦隊を包囲網に加え、船橋として活用してペーターヴァルダインとの補給路を確保、同時にベオグラードへ砲撃した。ハリル・パシャはベオグラードの救援に向かい8月に包囲軍へ砲撃、包囲軍は疫病が流行して崩壊の危機が迫ったが、オイゲンは起死回生を賭けて8月16日の朝に救援軍を奇襲、短時間で救援軍を敗走させベオグラードも降伏させた。ベオグラード陥落後の11月にオーストリア軍は帰国、オイゲンはヨーロッパ各国で英雄と称えられた。
    ベオグラードの戦いにおけるプリンツ・オイゲン(ヨハン・ゴットフリート・アウエルバッハ画)
    ベオグラードの戦いにおけるプリンツ・オイゲン(ヨハン・ゴットフリート・アウエルバッハ画) 

    ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。

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    「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
    「太陽王の孫ルイ16世 曾孫に」
    「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
    「マリアテレジアは 女帝であったのか?」      
    「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。

    「欧州磁器戦争史  (ウィーン・アウガルテン窯)  秘法漏洩 2,」 詳しくは コチラをクリック してください。
    「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」
    「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」 
    「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
    「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。

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    アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。

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    マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで  時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました(よくお客様に このプリンスオイゲンが 紀子様 お輿入れ道具になった事を お話しますと お客様は マイセンでもないのに 1客10万もするの? と 聞かれます。ウィーン御留学の経験ある 紀子さまは さすが ヨーロッパにおける この窯の名声と 磁器として 食器としても 最高のお品であると ご存じだったのですね。)

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    工房
    アウガルテン城内  アウガルテン工房

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    少年 
    ウィーン少年合唱団

    トルコ軍による第二次ウィーン包囲
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    オイゲン・フランツ・フォン・ザヴォイエン=カリグナン(1663年 - 1736年)は、オーストリアに仕えた名高き軍人で、政治家でもある。プリンツ・オイゲンの呼び名で知られる。サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族で、サヴォイア公の男系子孫にあたることから、公子(プリンツ)の称号をもって呼ばれた。
    オーストリアにおけるオイゲンの軍歴は、1683年の第二次ウィーン包囲に始まったオスマン帝国との戦争(大トルコ戦争)から始まった。長期に渡って続いたこの戦争においてオイゲンはロレーヌ(ロートリンゲン)公シャルル5世に従いハンガリー戦線で活躍し、1687年のモハーチの戦いでは騎兵隊を指揮して手柄を上げた。この戦いでオスマン帝国軍がハンガリーに勝利した結果、ハンガリー領は三分割され ハプスブルク家が統治する王領ハンガリー(1526年 - 1867年)は残された。
    第二次ウィーン包囲(なお、この包囲戦について、ルイ14世は親オスマン派だったため救援を送らなかったが、キリスト教徒防衛のため自発的に参加するフランス貴族もいた。その中にプリンツ・オイゲンも含まれていて、従兄に当たるルートヴィヒ・ヴィルヘルムの下で従軍して竜騎兵隊長に任命され、やがてオーストリアを代表する名将へと成長していった。)は、オスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍は 神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した(これに、当時オスマン帝国とポドリアを巡って争っていたポーランド国王ヤン3世が応え、ヤン3世ソビェスキはポーランドとドイツ諸領邦からなる連合軍を率いて自らウィーンの救援に向かった。ロレーヌ公シャルル5世、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯、らも救援軍に合流した。)中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり(到着した9月12日にオスマン軍の防備体制が弱体であることを見抜いたヤン3世は 夕刻に連合軍に総攻撃を命じた。偵察によってカラ・ムスタファの本営の位置を正確に把握していたポーランド・リトアニア共和国軍精鋭の有翼重装騎兵「フサリア」の3000騎はオスマン軍陣地の中央突破を敢行しこれを分断、そのままムスタファの本営までまっすぐ突撃し大混乱に陥れた。わずか1時間ほど続いた戦闘によってオスマン軍は包囲陣を寸断され、散り散りになって潰走した。)、この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。以後 両国の間は平和であったが、オスマン帝国はスルタン・アフメト3世が対外戦争に乗り出し、1710年にピョートル1世のロシア・ツァーリ国相手に大北方戦争で勝利、1711年のプルト条約でアゾフを取り戻し、1714年にヴェネツィア共和国とペロポネソス半島を巡り争うと(オスマン・ヴェネツィア戦争)、オーストリアはオスマン帝国の脅威を取り除くためヴェネツィア側に立ち、1716年に宣戦布告した。戦争準備は1715年からオーストリア軍総司令官のプリンツ・オイゲンが中心として進め、オーストリアは神聖ローマ帝国諸侯とローマ教皇クレメンス11世からの資金援助と援軍派遣を受けていた他、1716年にイギリスと同盟を結び背後のスペインを牽制、バルカン半島出兵への準備を整えていった。一方のオスマン帝国も周辺国の軍勢を動員してオーストリアを迎え撃つ体勢を打ち立て、ベオグラードを中心に守備を固めていった。1716年7月、オイゲンを司令官としたオーストリア軍は首都ウィーンを出発、ドナウ川に沿ってバルカン半島の南へ進軍していった。一方オスマン帝国側は、アフメト3世の娘婿である 大宰相アリ・パシャが15万の軍勢でベオグラードから北上して、ベオグラードへの前線基地となるペーターヴァルダインを包囲したが、オイゲンは8月にペーターヴァルダインに到着すると、守備部隊の援護と合わせてオスマン帝国軍を撃破した(ペーターヴァルダインの戦い)。ベオグラード包囲に必要な船が不足していたため、オーストリアは軍を北へ向けてティサ川を北上、トランシルヴァニアへ進軍してティミショアラを落とし、11月にウィーンへ引き上げた。アリ・パシャはペーターヴァルダインの戦いで戦死したため、ハジ・ハリル・パシャが後任の大宰相に就任してオスマン帝国軍の再編成に追われた。翌1717年5月、オイゲン率いるオーストリア軍は再びバルカン半島を南下、6月からベオグラード包囲戦を開始した。ベオグラードはドナウ川と支流のサヴァ川に囲まれた包囲困難な都市であり、オーストリア軍はガレー船を中心とした艦隊を包囲網に加え、船橋として活用してペーターヴァルダインとの補給路を確保、同時にベオグラードへ砲撃した。ハリル・パシャはベオグラードの救援に向かい8月に包囲軍へ砲撃、包囲軍は疫病が流行して崩壊の危機が迫ったが、オイゲンは起死回生を賭けて8月16日の朝に救援軍を奇襲、短時間で救援軍を敗走させベオグラードも降伏させた。ベオグラード陥落後の11月にオーストリア軍は帰国、オイゲンはヨーロッパ各国で英雄と称えられた。  

    AU プリンスオイゲン ティー (1)他店
    他店 本来 上掲のヴェルベデール シェープの絵でしたのですが 随分稚拙になりました。

    AU プリンスオイゲン ティー (1)
    当店 絵の技量が違います。判るかなア ?

    「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」
    「太陽王の孫ルイ16世 曾孫に」
    「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」
    「マリアテレジアは 女帝であったのか?」      
    「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。

    「欧州磁器戦争史  (ウィーン・アウガルテン窯)  秘法漏洩 2,」 詳しくは コチラをクリック してください。
    「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」
    「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」 
    「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
    「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。

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    このシリーズは 夏の離宮・狩猟の館 アウガルテン城で マリアテレジアさんが ご使用されていたもの。
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    マリア・テレジア (1717年 - 1780年)は、神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。
    ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク君主国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる。
    オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号は「女王)」と(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。
    それまでハプスブルク家はサリカ法に基づく男系相続を定めていた。しかし彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子が誕生せず、成人したのもマリア・テレジアと妹のマリア・アンナのみであったことから後継者問題が表面化してくる。
    ロートリンゲン家は第二次ウィーン包囲においてオスマントルコを敗走せしめた英雄カール5世の末裔であり、ハプスブルク家にとっても深い縁があったことから、カール5世の孫との縁組が決定される。ロートリンゲン公レオポルトの次男フランツ・シュテファンが婚約者候補となり、またカール6世もフランツのことを大変気に入り、好待遇を受けるようになった。マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、憧憬はやがて愛情へ変わり、1736年、アウグスティーナ教会で2人は婚礼をあげた。当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚であった。結婚に際しフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るため、領地をフランスへ割譲し 代わりにトスカーナ公の地位を得た。カール6世は、オイゲン公の「王女には紙切れよりも強力な軍隊と財源を残すべし」と言う反対を尻目に、国本勅諚を出して国内および各国に、彼女のハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿フランツ・シュテファンが就くこととした。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての教育は施さなかった。このような政治的事情の一方、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であり、結婚後4年のうちにに連続して3人の大公女が誕生したため、フランツが批判の矢面に立たせられることとなる。
    1737年、フランツはトスカーナ公となり、1739年に夫妻はトスカーナを訪問する。フランツは同地の財政を立て直し、以後、オーストリアの財政基盤となった。相続問題の見通しの甘さはカール6世の崩御後すぐに露呈する。1740年、国本勅諚を公然と無視し、周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)である。フランス、スペインの列強のみならず、(カール6世が王国に昇格させた)プロイセン、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯らも叛旗を翻した。彼女は当時23歳(しかも第4子を妊娠中)で、いかなる政治的教育も受けていなかった。1740年、プロイセン王フリードリヒ2世が最初に、シュレージエンに侵攻した。プロイセン王は、孤立しているハンガリー女王マリア・テレジアを守護するための出兵であるとして、代償として300万グルテンとシュレージエン割譲を求めた。これに対して動揺する老臣らに、マリア・テレジアはシュレージエン防衛の決意を明らかにし第一次シュレージエン戦争、オーストリア・ザクセン戦争が勃発した。さらに、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトもオーストリアの敵に回った。マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれた。
    1741年に待望の男児ヨーゼフが誕生し、国内の士気は大いに上がる。しかし4月10日にはモルヴィッツの戦いで大敗する。西側を包囲された四面楚歌の状況にあって、マリア・テレジアは東方のハンガリーに救いを求める。ハンガリーは異民族であり、心情的には長年対立していた。マリア・テレジアは夫と子供たちを伴いプレスブルクへ赴き、6月25日にハンガリー女王として即位した。美しく力強い女王の姿は、好印象を与えた。ここでハンガリー議会と交渉を開始する。9月には幼いヨーゼフを抱き「この子を抱いた私を助けられるのはあなたがただけなのです」と演説。数か月にも及ぶ折衝の末、ハンガリーは「我々は我が血と生命を女王に捧げる」と誓約し、特権と引き換えに資金と兵力を差し出した。ハンガリーは、後世までオーストリア軍の主力として勇名を馳せることとなる。
    ハンガリー女王として 
    ハンガリー女王として

    ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。

    マリアテレジアのウィーン窯も フランスロココの模倣から 独自のウィーン様式を確立し 18世紀中葉には マイセンに代わり セーヴルと並んで  時代をリードするほどになりました。1761年 ハンガリーのシュメルニッツで 良質のカオリンが 発掘され 白磁に磨きがかかり 窯印も 粗野な刻印から 高貴な染付となり 美術的名声(第1黄金期)を博していきました。しかし どの窯もそうであったように 飽くなき名声の追求は 莫大な資金を飲み込み 窯の存亡の危機を招きます。1784年 マリアテレジアの息子 フランツ・ヨーゼフ二世皇帝は 帝国の陰りの前に 体面をかなぐり捨て 遂に ウィーン窯を 競売にかけました。しかし 応札は誰も無く やむなく ゾルゲンタール男爵を 経営改革の任に 付けました。彼は ロココから ネオクラシックの流れに 強いウィーンスタイルを主張した 他の追随を 許さぬ美術磁器を 生み出していきました。絶頂の ウィーン窯・第2黄金期は1804年 フランス皇帝に即位した ナポレオンにより 貶められていきました。神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオンに フランツ・ヨーゼフ二世は 神聖ローマ帝国皇帝を廃嫡し オーストリア世襲皇帝となり オーストリアを守ることに手一杯になりました。最後の光芒を放ったビーダーマイヤー(市民革命)様式に見せた ウィーン窯の威厳も 所詮は 徒花となり 1864年 120年の栄光の末 廃窯することになりました。モールドは1部がヘレンドや ウィーンノイシュタット窯や やがて ワーリスなどに流れて行くのですが ハブスブルグ家程の資金も情熱もなく 栄光は引き継がれず 贋作のみ盛んになりました。

    日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。

    余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。 

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    「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」

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    マリアテレジアさんに付いて
    ご存知 マリアテレジアさんは ヨーロッパで 初の女帝になられた方ですが そのことに難癖をつけて 領土的野心のある プロイセンのフリードリヒ大王や ザクセン(マイセン)アウグスト王や ロシアなどの干渉を受け シュレジエン戦争や 7年戦争に 巻き込まれていきます。賢明なマリアテレジアさんは 群がる群雄の中 1756年  ルイ15世公妾ポンパドール伯爵夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝と図り 反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。特に宿敵フランスとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットをフランス王室に嫁がせることとなる。有名な 娘の政略結婚が 後の悲劇を 生み出しますが マリアテレジアさんとしては 国を守ることも大切ですが 娘の幸せを願う相手として 太陽王の孫ルイ16世は ヨーロッパ一の貴族 ハプスグルグ家の娘に 相応しいと 信じられたことでしょう。
    個人的には、当時の王族としては珍しく、初恋の人である夫フランツ・シュテファンとは恋愛結婚で結ばれ(夫の方はこの結婚のために、家領ロレーヌ公国を手放さなければならなかった)、夫婦生活は非常に円満だった。結婚の4日前にフランツにしたためた手紙が現在も残り、未来の夫への情熱的な想いを今に伝える。この手紙はラテン語やフランス語などの様々な言語で書かれ、彼女の教養の深さを窺い知ることができる。フランツは時折他の女性と浮き名を流すことがあったが、政治家として多忙な彼女はそれらをすべて把握した上で目をつむった。また、夫が亡くなると、彼女はそれまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与えてしまい、以後15年間、自らの死まで喪服だけの生活を送ったと言われる。

    喪服のマリア・テレジア
    喪服のマリア・テレジア


    多忙な政務をこなしながら、フランツとの間に男子5人、女子11人の16人の子供をなした。

    子だくさん
    子供に関しては、四女マリア・クリスティーナを最も可愛がり、彼女にだけは相愛のポーランド王アウグスト3世の息子アルベルト・カジミールとの恋愛結婚を1766年に許している。このためマリア・テレジアの死後、この夫婦はヨーゼフ2世から冷遇された。また、身体障害者で病弱であった次女マリア・アンナに対しては生涯を通じて酷薄であった。死の直前まで末娘でフランス王妃になったマリー・アントワネットの身を案じていた。夫フランツ譲りの遊び好きな娘に対し、フランス革命の発生を警告する手紙を送っている。また、プファルツ選帝侯家傍系のツヴァイブリュッケン公カール・アウグスト(バイエルン王マクシミリアン1世の兄)との恋愛結婚を認められないままパルマ公フェルディナンド妃となった六女マリア・アマーリアは、嫁ぎ先で傍若無人な振る舞いをしたため帰国禁止となっている。


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    ヒエロニムス・ボス(1450年頃 - 1516年)は、本名 イェルーン・ファン・アーケン。日本ではヒエロニムス・ボッシュと表記されることもある。ルネサンス期のネーデルラント(フランドル)の画家 同時期の他の初期フランドル派とは一線を画した、シュルレアリスムを思わせるような幻想的で怪異な作風が特徴であり、それぞれの主題や制作意図も謎に満ちている。その作風はピーテル・ブリューゲルを始めとする後世の画家に大きな影響を与えた。
    聖クリストフォロス 1500年頃
    聖クリストフォロス ヒエロニムス・ボス 1500年頃 ボイマンス美術館所蔵
    クリストフォロス(原意はギリシア語の「キリストを背負うもの」全世界の人々の罪を背負っているためイエスは重かった)は、3世紀のローマ皇帝デキウスの時代に殉教したというキリスト教の伝説的な聖人。
    今「北アルプス国際芸術祭」に参加中。軽い気持ちでマリアテレジアさんで取り上げてみたのですが関連付けられる絵が見当たりません。ピーテル・ブリューゲルらに大きな影響を与え シュルレアリスムの魁として ダリらにも大いなる影響を与えたボスですから 難解なのは端から承知の助でしたのですが この絵に魚や 樹上の水差しの家や猿 ? 果ては首を吊られた熊 ? j全く分かりません。絵は理論じゃない 感性だと逃げてみても ボスに一輪の薔薇を見つけられなかったのも この3時間の徒労 疲れを感じます。

    マリア・テレジア (1717年 - 1780年)は、神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。カール6世の最初の女子であり、両親は遥かヨルダン川の水で洗礼を受けさせたり、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納したりと歓迎した。「小さなレースル」は母親譲りの輝く美貌を持ち、市民からの人気も高かった。
    ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク君主国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる。
    オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主であり、彼女の次代から、つまり子供たちの代からが正式に、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。なお、マリア・テレジア本人が好んで使用した称号は「女王)」と(皇后)」の頭文字を取った「K.K」であり、以後のハプスブルク家で慣例的に用いられるようになった。
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    マリア・テレジア、夫のフランク・シュテファン、小さい頃のヨーゼフ2世
    マリア・テレジア、夫のフランク・シュテファン、小さい頃のヨーゼフ2世
    カール6世は、オイゲン公の「王女には紙切れよりも強力な軍隊と財源を残すべし」と言う反対を尻目に、国本勅諚を出して国内および各国に、彼女のハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿フランツ・シュテファンが就くこととした。しかしカール6世はそれでもなお男児(孫)の誕生を夢見ており、彼女に政治家としての教育は施さなかった。このような政治的事情の一方、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの仲はすこぶる円満であり、結婚後4年のうちにに連続して3人の大公女が誕生したため、フランツが批判の矢面に立たせられることとなる。1737年、フランツはトスカーナ公となり、1739年に夫妻はトスカーナを訪問する。フランツは同地の財政を立て直し、以後、オーストリアの財政基盤となった。
    相続問題の見通しの甘さはカール6世の崩御後すぐに露呈する。1740年、国本勅諚を公然と無視し、周辺諸国は娘の相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできた。これがオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)である。フランス、スペインの列強のみならず、(カール6世が王国に昇格させた)プロイセン、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯らも叛旗を翻した。彼女は当時23歳(しかも第4子を妊娠中)で、いかなる政治的教育も受けていなかった。1740年、プロイセン王フリードリヒ2世が最初に、シュレージエンに侵攻した。プロイセン王は、孤立しているハンガリー女王マリア・テレジアを守護するための出兵であるとして、代償として300万グルテンとシュレージエン割譲を求めた。これに対して動揺する老臣らに、マリア・テレジアはシュレージエン防衛の決意を明らかにし第一次シュレージエン戦争、オーストリア・ザクセン戦争が勃発した。さらに、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトもオーストリアの敵に回った。マリア・テレジアはバイエルンとの戦いを決意したものの、オーストリアは度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、宮廷の重臣たちは冷ややかで窮地に追い込まれた。
    1741年に待望の男児ヨーゼフが誕生し、国内の士気は大いに上がる。しかし4月10日にはモルヴィッツの戦いで大敗する。西側を包囲された四面楚歌の状況にあって、マリア・テレジアは東方のハンガリーに救いを求める。ハンガリーは異民族であり、心情的には長年対立していた。マリア・テレジアは夫と子供たちを伴いプレスブルクへ赴き、6月25日にハンガリー女王として即位した。美しく力強い女王の姿は、好印象を与えた。
    ハンガリー女王として 
    ここでハンガリー議会と交渉を開始する。9月には幼いヨーゼフを抱き「この子を抱いた私を助けられるのはあなたがただけなのです」と演説。数か月にも及ぶ折衝の末、ハンガリーは「我々は我が血と生命を女王に捧げる」と誓約し、特権と引き換えに資金と兵力を差し出した。ハンガリーは、後世までオーストリア軍の主力として勇名を馳せることとなる。

    城2
    このシリーズは 夏の離宮・狩猟の館 アウガルテン城で マリアテレジアさんが ご使用されていたもの。

    6柄セットもあります。
    Aバラ Bデイジー C野バラ D麦藁草 E水仙 F菫

    単品 B 売り切れ

    珍しいシューベルトシェイプも少しあります

    ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。

    日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。br>


    余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも 有名です。 


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    「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」

    「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」

    「マリアテレジアは 女帝であったのか?」      


    「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 1,2,3,」 詳しくは コチラをクリック してください。「神聖


    ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」 加筆しました。
    「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」 
    「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」
    「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 加筆しました。

    マリアテレジアさんに付いて
    ご存知 マリアテレジアさんは ヨーロッパで 初の女帝になられた方ですが そのことに難癖をつけて 領土的野心のある プロイセンのフリードリヒ大王や ザクセン(マイセン)アウグスト王や ロシアなどの干渉を受け シュレジエン戦争や 7年戦争に 巻き込まれていきます。賢明なマリアテレジアさんは 群がる群雄の中 1756年  ルイ15世公妾ポンパドール伯爵夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝と図り 反プロイセン包囲網を結成した。これは「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる。特に宿敵フランスとの和解は外交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワネットをフランス王室に嫁がせることとなる。有名な 娘の政略結婚が 後の悲劇を 生み出しますが マリアテレジアさんとしては 国を守ることも大切ですが 娘の幸せを願う相手として 太陽王の孫ルイ16世は ヨーロッパ一の貴族 ハプスグルグ家の娘に 相応しいと 信じられたことでしょう。
    個人的には、当時の王族としては珍しく、初恋の人である夫フランツ・シュテファンとは恋愛結婚で結ばれ(夫の方はこの結婚のために、家領ロレーヌ公国を手放さなければならなかった)、夫婦生活は非常に円満だった。結婚の4日前にフランツにしたためた手紙が現在も残り、未来の夫への情熱的な想いを今に伝える。この手紙はラテン語やフランス語などの様々な言語で書かれ、彼女の教養の深さを窺い知ることができる。フランツは時折他の女性と浮き名を流すことがあったが、政治家として多忙な彼女はそれらをすべて把握した上で目をつむった。また、夫が亡くなると、彼女はそれまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与えてしまい、以後15年間、自らの死まで喪服だけの生活を送ったと言われる。


    喪服のマリア・テレジア2
    喪服のマリア・テレジア
    多忙な政務をこなしながら、フランツとの間に男子5人、女子11人の16人の子供をなした。子供に関しては、四女マリア・クリスティーナを最も可愛がり、彼女にだけは相愛のポーランド王アウグスト3世の息子アルベルト・カジミールとの恋愛結婚を1766年に許している。このためマリア・テレジアの死後、この夫婦はヨーゼフ2世から冷遇された。また、身体障害者で病弱であった次女マリア・アンナに対しては生涯を通じて酷薄であった。死の直前まで末娘でフランス王妃になったマリー・アントワネットの身を案じていた。夫フランツ譲りの遊び好きな娘に対し、フランス革命の発生を警告する手紙を送っている。また、プファルツ選帝侯家傍系のツヴァイブリュッケン公カール・アウグスト(バイエルン王マクシミリアン1世の兄)との恋愛結婚を認められないままパルマ公フェルディナンド妃となった六女マリア・アマーリアは、嫁ぎ先で傍若無人な振る舞いをしたため帰国禁止となっている。


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    ユーロなき シリング時代に仕込んだ お熟成品が売り切。 再入荷


    アウガルテン・ウィーンが 世界中でどこより安い秘密は 2000年以来 お熟成アインにあります。ピカピカの新品です。
    うたい文句を死守するため お熟成品をまだ沢山持ってるので 再入荷品は 赤字 

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    今を去る 二昔 当店の大量発注に アウガルテン・ウィーン窯のオーナー(貴族の出自)と貿易部長女史が 表敬訪問に 訪れてくれると言う 光栄に浴しております。当時 日本に代理店がなかったので それを作りに来たとの話ですが 当店は すでに20~30年分の注文を差し上げているので 無理でしょうとのお話をしました。その折 手土産にいただいた マリアテレジアの スクェアディッシュは 今も本店に つつましく 展示されております。
    AU スクエアプレート (2
    忘れな草をあなたに


    1 別れても別れても 心の奥に いつまでも いつまでも 憶えておいて ほしいから
      幸せ祈る 言葉にかえて 忘れな草を あなたに あなたに


    2 いつの世もいつの世も 別れる人と 会う人の 会う人の 運命は 常にあるものを
      ただ泣きぬれて 浜辺に摘んだ 忘れな草を あなたに あなたに


    3 喜びの喜びの 涙にくれて 抱き合う 抱き合う その日がいつか 来るように
      二人の愛の 思い出そえて 忘れな草を あなたに あなたに


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    忘れな草
    ヨーロッパ原産で、北半球の温帯から亜寒帯(ユーラシア大陸・アフリカ大陸・オセアニア)に約50種が分布している。日本に渡来したのは、明治時代に園芸業者がノハラワスレナグサを輸入したのが最初と言われている。しかしワスレナグサ属ということでは、日本には元来、エゾムラサキ一種が自生分布している。
    忘れな草エゾムラサキ

    忘れな草                   エゾムラサキ

    古来 欧米では 誠実や友愛の象徴として広く親しまれ 米国 アラスカ州の洲花にもなっています。ちなみに属名のMyosotisは 葉が細くて多毛で柔らかいのがネズミの耳に似ているところから ギリシャ語の二十日鼠myos耳otisから来ています。

    銘窯 アウガルテン・ウィーン 初入荷

    ピカピカの新品です。

    19世紀初頭創作 奇を衒わず 楚々とした雅は いかにもウィーン好み
    1804年 ナポレオン1世 フランス第1帝政の皇帝位に即位 その膨張は 近隣国に多大の圧迫となり 苦しみの中から 生まれた 美の追求作です。

    和名 勿忘草

    フォーゲット ミー ノット forget-me-not 
    花言葉は 私を 忘れないで

    中世ドイツ 悲恋伝説の主人公の言葉から。
    ドナウ川

    昔、騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲く この花を、恋人ベルタのために 摘もうと岸を降りたが、誤って 川の流れに呑まれてしまう。ルドルフは 最後の力を尽くして 花を岸に投げ、 Vergiss-mein-nicht ! (僕を忘れないで)と いう言葉を残して死んだ。残されたベルタは ルドルフの墓に その花を供え、彼の最期の言葉を 花の名にした。


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    ハプスブルク王家のマリアテレジア女帝が 育てたウィーン窯(1717年 デュ・パキエ創窯,1744年 マリアテレジア帝立,1864年 廃窯)を オーストリア政府の肝いりで 1923年(文献によると 22年説,23年説,24年説と 創窯年に異説がありますが アウガルテン社に敬意を表して23年説に改めます。) 創窯・継承したアウガルテン窯(アウガルテン城は マリアテレジアの夏の離宮。バックロゴも ハプスブルグ王家の盾形紋章とWienを 許されております。学術的にはモールドの継承をもって窯の継承でありますが それが 無いとはいえ杓子定規に 正統性云々は 言わずもがなの事でしょう) ウィーン窯は 当時のマイセンを手本とすれば 厚手にならざるを得なかったのでしょうが 磁器の研究が進んだ手工芸品時代には 透き通るような モスリン胎 卵殻胎が 行われておりました。1923年創窯のアウガルテンは ウィーン窯の美しい絵柄や 機能性重視の奇を衒わない 精神は継承しても 白磁本来の透明な美しさが 知られておる近代創窯として その点だけは 譲れなかったのでしょう。 実際その白さは 手工芸品時代に近く マイセンやウィーン窯の乳白色とは また一味違った美しさです。モールドの継承がなかったのは 怪我の功名といえるでしょう 。 実際 モールドを引き継がなかった正統性の疑義は ウィーン窯の精神の昇華をもって 償って余りあるでしょう。


    ウルムの戦いは、1805年10月 バイエルン公国領(現ドイツ領)シュトゥットガルト近郊の町ウルム郊外で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス帝国軍(大陸軍)がマック将軍率いるオーストリア軍を破った戦いである。11月、フランス軍は 既に放棄されたオーストリアの首都ウィーンに入城した。アレクサンドル1世のロシア軍は戦わずしてウィーンからチェコへ退却し、神聖ローマ皇帝フランツ2世もチェコのオルミュッツに逃れた。オルミュッツに集結した軍団は、イタリアから北上してくるカール大公の軍を待つことになった。フェルディナンド大公率いるオーストリア軍一万八千もプラハに展開していた。オーストリア軍には集結させると十万近い軍団がまだ健在であった。ウィーンにいるナポレオンを北と南から挟撃しようとした。

    アウス

    アウステルリッツの戦い(三帝会戦) 1805年12月2日早朝 連合軍が攻撃を開始した。戦いは 数に勝れど練度に劣る若い2帝に利あらず 連戦練磨・少数精鋭のナポレオン帝の前に 12月午後4時ごろまでに 連合軍の組織的抵抗は完全に終わり、フランツ帝はその日のうちにナポレオンに降伏。アレクサンドル帝はロシアへ逃げ帰った。1805年12月16日、フランスとオーストリアはプレスブルク条約を締結。オーストリアはこの条約でヴェネチア、ダルマチア、チロル・トレント・アウグスブルクなどの領土を失い、賠償金5000万フローリンを課せられることとなった。

    日本でのみ横行する 如何わしい 1718年 アウガルテン開窯説は 栄光のウィーン窯(デュ・パキエ)の開窯年(1717年説も)であり それを拝借するのは 羊頭狗肉(看板は高級な羊肉を掲げ 売っているのは安物の犬肉) 挙句 贔屓の引き倒し 素晴らしいアウガルテンを 貶めるものです。事実 アウガルテン窯は 1923年開窯を詠い 姑息な虚構に与しておりません。


    余談ですが アウガルテン城は ウィーン少年合唱団の 寄宿舎になっていることでも有名です。


    「マリア・テレジアと マリー・アントワネット」

    「太陽王の孫ルイ16世 曾孫に」

    「フランス・ブルボン王朝との第一次ヴェルサイユ条約」

    「マリアテレジアは 女帝であったのか?」      

    「第2黄金期 マリアテレジアの息子ヨーゼフ二世皇帝」 加筆しました。


    「欧州磁器戦争史 (ウィーン窯) 秘法漏洩 2,」 詳しくは コチラをクリック してください。


    「神聖ローマ帝国皇帝位の簒奪を狙うナポレオン」

     「ウィーン窯・第2黄金期に ナポレオンの毒牙 遂に終焉に」 

    「1864年 ウィーン窯 閉窯後の 正統性の証 モールドの行方」

    「ウィーン窯 廃窯後 60年を経て アウガルテン窯 創窯・継承」 

    「ビーダーマイヤー」 加筆しました。


    当店は 日夜 洋食器の故事来歴を 文献をあさり 蒐集した現物と照らし合わせ 研鑽します。文献には 記したお国 記した窯の 自己顕示欲から 我田引水 荒唐無稽 挙句は 正反対のものまで乱暴に対立しております。当店は 一所懸命に 混乱を紐解いていきます。洋食器愛好家に 正しく 美を 愛でてほしいからです。作る側の虚偽は 勿論 誇張もいただけません。幸い当店には 四半世紀にわたり 蒐集してきた 膨大な実物がございます。岡本は 1年364日 この人達?に 語り掛け 問いかけ 来し方を 教わります。実物は 恐いですよ,強いですよ。薄っぺらな 小手先の書の自信のなさは 直ぐに看破します。当店の耐震ビルの 一階は店舗ですが ワンフロア100坪の2階から5階までには当店の気に入ったものから 気には入らないが 永い伝統に生きてきたもの それにはそれなりの支持があったのですから そこは謙虚に敬意を表して 蒐集して来た強い味方さんらで溢れております。よく自分は美に造詣が深く 自分にかなわぬものは・・・・・という人には与しません。えてして そういう人は まったく方向違いの批判をします。当店は 己の眼力を養い 愛好家に 最高のものを選んでいただくのが 責務と考えております。己の眼力に自信がなかったころは マイセンならマイセンに 一目置かれておるヨーロッパ代理店を選りすぐり そこを経由して マイセンに厳選制作してもらっておりました。今や 伝統に頼れない新作でも 創窯者の目でもって その窯の伝統の正当性の判別が できるようになったのではと自負しております。愛好家諸兄の ご批判 ご反論の ご教導 お待ちしております。ご質問も大歓迎です。 管見ながら 精一杯返答に努めます。
     


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    お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。

    某百貨店と提携していた代理店さん(本業は大手乙仲さんですが 美術食器に造詣の深い方)が撤退に当たり 在庫のひきとりを要請されました。10トントラックに2台ありました。アビランドは高価ゆえ 国内取引でもあり 月賦にしてもらいました。売り切れたアイテムが出ても 在庫の大きさから 見合しておりましたが 日本でお取り扱いがないと言っていいぐらいでしたので ご要望の多かったものは やむなく補充しておりますが リモージュ一のプライドにかけて 高価です。

    主だったお店を調べましたが  お取り扱いがあると言えるほどのお店がなく お熟成アインが在庫量の大きさも プライスの安さも 一番です。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手にお高くさばいていかれました。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !

    映画「バベットの晩餐会」 「12人の使徒」に贈る、「最初にして、最後の晩餐」という極上の「お伽噺」
    Juan de Juanes The Last Supper
    聖餐祭 Juan de Juanes (c.1562)
    ビセンテ・フアン・マシップ(Juan de Juanes 1510-1579はスペイン バレンシアのルネサンスの画家 。

    静かな田舎町で慎ましく暮らすプロテスタントの姉妹のもとにやってきた家政婦バベットの作る芸術的な料理に満たされる 一世一代の晩餐会とそれにまつわる人々の人生を追った群像ドラマ。「食べること」に人生の全てを詰め込んだかのような奥深い味わいに、今日も多くの人が魅了されている名作だ。アビランド「アンペラトリス・ユージェニー」が使われています。
    数々の名作を残したデンマークを代表する女流作家 カレン・ブリクセンの同名小説の映像化作品である。
    監督は、ガブリエル・アクセル。低迷していたデンマーク映画史に光を刺したデンマーク人映画監督の一人である。第60回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞。
    バベットの晩餐会
    日本ではあまり知られていないが世界的にはかなりの大物であるため、小説を好む人にとって『バベットの晩餐会』は彼女の作品に触れるよいきっかけになるでしょう。

    ナポレオン皇帝3世王妃ユージェニーのご下命品
    シンプルな ネオクラシック様式に ユージェニー妃の好きな菫が アールヌーボ(ガレ)調に描かれている この佳品は 1901年以来 最高のテーブルサービスとして 今も 息づいています。

    フランスの国賓接待用食器は 総て セーヴルですが このアンペラトリスユージェニーが 唯一の例外として 現在まで 大統領宮殿 エリゼ宮において 国賓接待用の サービスとして採用。 
    アビランド社が 数あるリモージュの中で 一頭地を抜く所以

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    2000年 21世紀開幕 アンペラトリスユージェニー誕生100周年記念 手描き・スティンブル本金彩限定品 のお求めはコチラ
    泣いても 笑っても 地上に最後の新品一客

    売り切れ 新入荷 この名作売り切れれば再入荷させない訳には 行かないでしょう。

    もう一人の怖ーい鉄の処女
    伯爵夫人バートリ・エルジェーベト 

    鉄の処女は中世ヨーロッパで刑罰や拷問に用いられたとされる拷問具。「空想上の拷問具の再現」とする説も強い。聖母マリアをかたどったともいわれる女性の形をした、高さ2メートルほどの大きさの、中が空洞の人形である。

    鉄の処女伝説

    鉄の処女には、ハンガリーの伯爵夫人バートリ・エルジェーベトが作らせたものとする伝説がある。メイドの少女がエルジェーベトの髪を櫛でとかしていた所、櫛に絡まりついた髪を誤って引っ張ってしまった。激怒したエルジェーベトは、髪留めでメイドの胸を何度も突き刺し心臓をえぐった。返り血がかかった手を拭うと肌が金色に輝いたように見えたため、エルジェーベトは「処女の血を浴びると肌が綺麗になる」と思い込み、配下の者に命じて村中の処女を集めさせた。その血液を絞り取るために特別に作らせた器具が鉄の処女であるとされる。その後エルジェーベトの鉄の処女は改良され、搾り取られた処女の血液は管を通してバスタブへと注ぎ込まれる細工が組み込まれた。
    犠牲者が死んだ後に棺の扉を開けると棺の床が抜けて死体は水で城の外に流されるようになっており、そのための水路には刃物が設置されていたので、死体が城外に出る頃には原形をとどめていなかったという。しかしこれはあくまで風説のレベルに過ぎず、実在を示した証拠は何もない。文献上は存在しているが、現物は一切存在しない。


    ウジェニー・ド・モンティジョ(1826年 - 1920年)は、フランス皇帝ナポレオン3世の皇后。
    テバ伯爵(父・ボナパルティスト)令嬢マリア・エウへニア・イニャシア・アグスティナ・デ・パラフォクス・イ・キルクパトリックとして生まれ、結婚にともない、フランス皇后アンペラトリス・ウジェニーとなった。
    父親譲りの勇敢さと彼女の美しさの評判はフランスだけではなく、やがてヨーロッパ各国へ伝わって行った。彼女は各国の王侯貴族から求婚されているが、すべてを断り続け、やがて鉄の処女と言われるようになる。1848年にルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)が第二共和政の大統領になると、ウジェニーは母とともにエリゼ宮での「皇子大統領」主催の舞踏会に姿を現した。これが彼女が未来の皇帝と出会った最初の機会であった。1853年1月30日、ウジェニーは前年にフランス皇帝に即位していたナポレオン3世と、ノートルダム大聖堂で結婚式を挙げた。それまでの短い間に、ナポレオン3世はヴィクトリア王家などの何人かとの縁談を断わっていた。多くの称号と伝統ある血統を受け継ぐ26歳のスペインの伯爵令嬢だが、彼女はボナパルト家に十分にふさわしいとは思われなかった。1855年、皇帝と共に。結婚を反対されたヴィクトリア女王らを公式訪問した。ウジェニーは ヴィクトリア女王から非常に気に入られ、画家のフランツ・ヴィンターハルターを紹介され、多くの肖像画を残している。

    ウジェニー・ド・モンティジョ2
    ヴィンターハルターの名作「ウジェニー皇后」

    1856年、ウジェニーは皇子を生んだ。ナポレオン4世である。ウジェニーの美しさ、気品とマナーの魅力は皇帝支配の輝きに貢献した。ウジェニーが1855年に着けた新しい骨組みのクリノリンは、ヨーロッパの宮廷ファッションに流行を巻き起こした。「シック」という表現はウジェニーの宮廷や第二帝政を表現する言葉であったと言われる。フランスに嫁いで間もなくから慈善活動に力を入れており、女性の社会活動にも影響があった。1866年には女性を初めて電報局で雇用している。ウジェニーはフランスで教育を受け、大変知性があったので、1859年、1865年および1870年の皇帝の留守の間、彼女は摂政として行動した。カトリックで保守的なウジェニーは、ウルトラモンタニストであったので ウジェニーは憎まれ、フランスの反教権主義者によって中傷された。普仏戦争でフランスが敗れ、第二帝政が覆された後、皇后は夫とともにイギリスへと亡命し、ケント州のチズルハーストに居住した。イギリスでは王室や国民に歓迎され、丁重に扱われた。


    ウジェニーとフランス王室のジュエリーは、亡命に伴い海外に流出してしまった。当時、ロンドンのフランス人は世界のダイヤモンドの産地と呼ばれたという。
     ウジェニーとフランス王室のジュエリーは、亡命に伴い海外に流出してしまった。当時、ロンドンのフランス人は世界のダイヤモンドの産地と呼ばれたという。

    皇帝の死(1873年)から12年後、彼女はハンプシャーのファーンバラにある古代ギリシア語でコルシカを意味する別荘に引っ越した。そこは彼女が、フランスの政治に一切干渉せずに余生を過ごした場所となった。ウジェニーは1920年 94歳でマドリードに滞在中に死んだ。彼女はファーンバラの聖マイケル修道院 に、夫と、1879年にアフリカのズールー戦争で戦死した息子ナポレオン・ウジェーヌとともに埋葬された。皇后は宇宙にも記念されている。小惑星ウジェニアは彼女にちなんで命名された。


    インペリアルシェープ 

     アンピール様式の花
    ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生


    欧州磁器戦争史 (王権と民窯-5 アビランド・ジョルジュボワイエ) 詳しくは コチラをクリック してください。

    王権と民窯-1,2,3,4, の次に有ります。


    お熟成洋食器店アインのアビランドは ユーロ前のフランスフラン時代に 当時の代理店から 仕込んだ真正なお品です。当店のブランド洋食器は 総て 日本や欧米各国の 代理店を とおして 窯元に 注文制作したものです。現地在庫を あさらないのは B品の混入を避けるためです。




  • アビランド(リモージュ) 【ヴューパリブルー】  ティー(インペリアル)C/S 30%Off
    アビランド(リモージュ) 【ヴューパリブルー】  ティー(インペリアル)C/S 30%Off
    27,972円

    本体価格: ¥37.000


    小さい写真をクリックすると 拡大します。 


    通常20%Off  お歳暮ギフト ( 本日~12/10)   30%Off
     

    お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。

    某百貨店と提携していた代理店さん(本業は大手乙仲さんですが 美術食器に造詣の深い方)が撤退に当たり 在庫のひきとりを要請されました。10トントラックに2台ありました。アビランドは高価ゆえ 国内取引でもあり 月賦にしてもらいました。売り切れたアイテムが出ても 在庫の大きさから 見合しておりましたが 日本でお取り扱いがないと言っていいぐらいでしたので ご要望の多かったものは やむなく補充しておりますが リモージュ一のプライドにかけて 高価です。


    主だったお店を調べましたが  お取り扱いがあると言えるほどのお店がなく お熟成アインが在庫量の大きさも プライスの安さも 断トツの一番です。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手にお高くさばいていかれました。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !
     

    売り切れ 円安の中 新入荷 ピカピカの 新品です。


    パリのキャバレー 千の夜1
    ヴューパリのキャバレー フレンチカンカン 千夜一夜


    インペリアルシェープ
    アンピール様式の花 ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生

    パリのシックな高級住宅街16区にあるブローニュの森。着飾った紳士淑女が集うロンシャン競馬場や全仏オープンテニスで知られるローランギャロスでも有名ですが、もうひとつ忘れてはならないのが、世界有数のバラ園があるバガテル公園(伊豆にある河津バガテル公園はパリのこの公園の姉妹園!)。5~6月には園内1100種、約1万本のバラが見頃を迎えます。


    バガテル公園バガテル公園塔           
    バガテル公園はそもそも17世紀、ルイ16世の弟アルトワ伯によって造園されたイギリス式回遊庭園で、かのマリー・アントワネットも好んでよく訪れたとか。1907年よりパリ市の所有となりこのバラ園も開園され、毎年国際バラコンクールが開催されることでも知られています。園内には小さな池や小川の畔に小さな城館やあずま屋が点在し、咲き誇るバラとの風景はロマンティックなおとぎの国の世界に迷い込んだかのようなすばらしさ。またバラ以外にもアイリス、ダリヤといった季節の花が咲き、四季を通じて楽しめるのもうれしいですね。

    アビランドを代表する人気作
    王室由来のタピスリー ブローニュの森のバガテルの庭園をイメージ。
    青い小川の向こうの小さな花々に 小鳥が囀りそうな 明媚な朝の 始まりです。


    バガテル公園川


    ハンドトランスファー
    手工芸品(取っ手の下の絵がつながっています)


    フランスの国賓接待用食器は 総て セーヴルですがナポレオン皇帝3世王妃ユージェニーのご下命品 アンペラトリスユージェニーが 唯一の例外として 現在まで 大統領宮殿 エリゼ宮において 国賓接待用の サービスとして採用。 
    アビランド社が 数あるリモージュの中で 一頭地を抜く所以


    王権の呪縛を解き放たれたリモージュに 多くの民窯が 生まれたのは 美の究極セーヴルで 培われた 多くの名工達の存在による 必然です。人口に膾炙する アビランドもその一つです。ニューヨークの貿易商である デビッド・アビランド1842年磁器製造・絵付工房(それまで 白磁成型は リモージュで 絵付は パリ工房でなされていた)を 創設しました。


    <a href="http://einsshop.blog43.fc2.com/blog-entry-14018.html" target="_blank" title="欧州磁器戦争史 (王権と民窯-5 アビランド・ジョルジュボワイエ) 詳しくは コチラをクリック">欧州磁器戦争史 (王権と民窯-5 アビランド・ジョルジュボワイエ) 詳しくは コチラをクリック</a> してください。
    王権と民窯-1,2,3,4, の次に有ります。


  • アビランド(リモージュ) 【ルヴィシェンヌ】 ティーC/S (インペリアル) 21%Off
    アビランド(リモージュ) 【ルヴィシェンヌ】 ティーC/S (インペリアル) 21%Off
    29,862円

    本体価格: ¥35.000


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     通常20%Off  お歳暮ギフト ( 本日~12/10)   21%Off   
     
    お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。

    某百貨店と提携していた代理店さん(本業は大手乙仲さんですが 美術食器に造詣の深い方)が撤退に当たり 在庫のひきとりを要請されました。10トントラックに2台ありました。アビランドは高価ゆえ 国内取引でもあり 月賦にしてもらいました。売り切れたアイテムが出ても 在庫の大きさから 見合しておりましたが 日本でお取り扱いがないと言っていいぐらいでしたので ご要望の多かったものは やむなく補充しておりますが リモージュ一のプライドにかけて 高価です。

    主だったお店を調べましたが  お取り扱いがあると言えるほどのお店がなく お熟成アインが在庫量の大きさも プライスの安さも 一番です。何故でしょうか ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告をしたり ポイントをつけたりして上手にお高くさばいていかれました。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で お熟成アインが一番お安くなりました。お熟成アインの真骨頂 ! !

    売り切れ 再入荷

    ヴェルサイユ宮殿は、1682年にフランス王ルイ14世(1638年 - 在位1643年 - 1715年)が建てたフランスの宮殿(建設当初は離宮)である。ベルサイユ宮殿とも表記される。パリの南西22キロに位置する。主な部分の設計はマンサールとル・ブランによっておこなわれ、庭園はアンドレ・ル・ノートルによって造営された。バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。
    ヴェルサイユ宮殿
    ヴェルサイユ宮殿
    宮殿の建設よりも労力を費やされている噴水庭園には、宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されているルイ14世は10歳の時にフロンドの乱で、貴族たちに命を脅かされたことがある。ルイ14世はこの体験を一生忘れず、彼は貴族をヴェルサイユに強制移住させた。フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれる。ルイ14世をはじめとした王族と、その臣下が共に住むヴェルサイユ宮殿においては、生活のすべてが絶対王政の実現のために利用され、その結果さまざまなルール、エチケット、マナーが生まれた。第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印された場所でもある。
    噴水 - コピー
    噴水庭園

    アビランドの 名作中の名作
    ヴェルサイユ宮殿の 装飾タイルから生まれ 金彩を繊細な小花が静めた 奥深く華麗な名作。18世紀に愛されたアンティックデザインを 新鮮な現代風にアレンジしております。ヘレンド エグランティン等にも写される人気作です。
    ヘレンドエグランティン
    ヘレンド エグランティン


    インペリアルシェープ  アンピール様式の花
    ネオクラシック後期 ナポレオン好みの 端正・簡潔な この様式が派生


    フランスの国賓接待用食器は 総て セーヴルですが ナポレオン皇帝3世王妃ユージェニーのご下命品 アンペラトリスユージェニーが 唯一の例外として 現在まで 大統領宮殿 エリゼ宮において 国賓接待用の サービスとして採用。 アビランド社が 数あるリモージュの中で 一頭地を抜く所以


    お熟成洋食器店アインのアビランドは ユーロ前のフランスフラン時代に 当時の代理店から 仕込んだ真正なお品です。当店のブランド洋食器は 総て 日本や欧米各国の 代理店を通して 窯元に 注文制作したものです。現地在庫を あさらないのは B品の混入を避けるためです。


    王権の呪縛を解き放たれたリモージュに 多くの民窯が 生まれたのは 美の究極セーヴルで 培われた 多くの名工達の存在による 必然です。人口に膾炙する アビランドもその一つです。


    欧州磁器戦争史 (王権と民窯-5 アビランド・ジョルジュボワイエ) 詳しくは コチラをクリック してください。


  • ウェッジウッド 【アストバリーブラック・壷ロゴ】ティー(ピオニー)C/S 
    ウェッジウッド 【アストバリーブラック・壷ロゴ】ティー(ピオニー)C/S 
    259,200円

    本体価格: ¥240,000

    小さい写真をクリックすると 拡大します。


    通常オフ無し  お歳暮ギフトフェア ( 本日~12/10) 10%Off  

    お熟成価格は 安くて美味しい。お熟成ワインは ボージョレヌーボーより美味しいですが プレミアムが付いた分 高くなる。何故 お熟成アインは 安くなるんですか ? お熟成のプレミアムも お客様に差し上げているからです。

    この英国製素磁 壺ロゴの新品 世界中で お熟成アインにしか無い 最後の1客限定品です。だからお熟成アインが一番お安くなります。元来 東南アジア製素磁の今作と 英国製素磁 壺ロゴ 旧作の上代が同じなのから間違っています。
    それではお熟成アインだけに 何故あるのでしょう ? それは売るのが下手だからです。大概のお店は 色々な宣伝広告に金をかけたり ポイントで釣ったりして上手にお高くさばいていかれます。売り下手のアインは ひたすらお熟成 お値打ちのつくのを待ちます。お陰で 今ではこの完全英国製 壺ロゴの手の込んだ手工芸品は手に入りません。お熟成アインの真骨頂 ! !

    WW アストバリーブラック 拡大
    サラ天女拡大
    アストバリーは、1764年にウェッジウッドの創始者、ジョサイア・ウェッジウッドがサラと結婚をした特別な地。その地名を冠した「アストバリー ブラック」は、ウェッジウッドの最高級パターンです。ジョサイアにとって サラは アストバリーの地に舞い降りた天女だったのです。
    教会
    (天女舞う) アストバリーチャーチ



    ジョサイアは、1764年、いとこのサラと結婚しました。彼は家庭をとても大切にし、製品を作る際は、「サリー」と愛情を込めて呼んだ妻 サラのアドバイスに必ず耳を傾けました。 サラとの間に誕生した8人の子供たちは、ジョサイアの陶工家、科学者、社会事業家、企業家など、あらゆる側面を受け継ぎ、活躍しました。長女のスザンナは後に『種の起源』を発表したチャールズ・ダーウィンの母親となり、長男のジョンは王立園芸協会の初代財務長となりました。また、事業を次いだ次男のジョサイアII世は、画期的な美しい素地 ファイン ボーン チャイナを完成させ、最年少の息子、科学者トーマスは、「英国写真の父」という称号を与えられています。


    サラ(ヘブライ語:高貴な女性)は旧約聖書の登場人物で、アルバア・ハ=イマホット「四人の母」の一人である。アルバア・ハ=イマホットとはイスラエル民族の礎となった三人の祖父、アブラハム、イサク、ヤコブのそれぞれの正妻、サラ(アブラハム)、リベカ(イサク)、ラケル、レア(以上ヤコブ)の四人の女性を指すユダヤ教の概念である。ユダヤ人の間では「我等の母サラ」を意味するサラ・イマヌーという敬称で呼ばれている。一方、彼女の夫で異母兄、最初のヘブライ人、並びに信仰の父とされるアブラハムは、「我等の父アブラハム」を意味するアブラハム・アビヌーという敬称で呼ばれている。サラにまつわる逸話は『創世記』の11章から23章にかけて述べられている。
    旧約聖書におけるサラの経歴
    カナンへの移住: 物語の前半、彼女はサライという名前で呼ばれている。彼女がアブラハムと結婚したのは、まだカルデア地方のウルに住んでいた頃であったが、テラ(アブラハムの父)の一族の移住に伴い、故国を離れてカナンの地 更にネゲブへと到った。
    エジプト寄留: ところがカナン地方を飢饉が襲ったため、一族はエジプトへの避難を余儀なくされる。アブラハムはサライの美しさゆえに自身に危害が及ぶと案じたので、エジプト人の前では自分の妹(実際、異母妹ではあった)であると偽るよう彼女に懇願した。その懸念は現実のものとなりサライの評判を聞きつけたエジプトの王ファラオは彼女を娶り、その褒美としてアブラハムには莫大な富を与えた。しかし、度重なる災いがファラオと王家に降りかかるに及んで、サライがアブラハムの妻であることを知った。激怒した彼はサライをアブラハムに返すと、二人をエジプトから送り出した。アブラムの一行は放浪後、再度ベテルへと戻ってきた。
    イシュマエルの誕生: この道程の途上、神はアブラハムと彼の子孫に対してカナンの地を与える約束をした。しかしサライは不妊の女であった。彼女は75歳になるに至って自らによる出産を諦め、女奴隷のハガルを側女としてアブラハムに与えた。
    アブラハムとサラとハガル
    アブラハムとサラとハガル
    当時のこの地方には、不妊の妻が女奴隷を夫に与え、その側女との間に生まれた子供を自分の子供にできる風習があり、サライもまた、ハガルを通じて息子を得ようとしたのであった。 しかしハガルは妊娠したとたん、女主人サライを見下すようになった。この屈辱に耐えかねたサライがアブラハムに不平を漏らしたところ、アブラハムはこの件に関しては干渉しない旨を伝えた。するとサライはハガルを散々虐待したので、ついにハガルは逃亡してしまった。ハガルはその後、「主の御使い」に促されてサライのもとへと戻り、無事イシュマエルを出産している。 イシュマエルが13歳のとき神がアブラハムに現れ、彼に多くの子孫が生まれること、彼らにカナンの地が与えられること、そしてイシュマエルではなく、サライによって誕生する息子イサクがその地を受け継ぐことを約束した。もっとも、アブラハムには信じがたい約束であったため、彼はイシュマエルについての約束の成就を神に祈願した。それでも神は、イサクについての約束が成就すると念を押した。この折に、アブラムはアブラハムへと、サライはサラへとそれぞれ改名されている。 そんなある日のこと、二人のもとに三人の客人が現れ、今から一年後、サラには息子がいることを告げた。この言葉を聴いてサラは内心、密かに笑っていたのだが、この行為が「イサク」という息子の名前の由来となっている。
    ゲラル滞在: 神がソドムの町を滅ぼした後、アブラハムの一族は再び南へ向かって放浪し、ゲラル地方に到達した。アブラハムはここでもまたサラを自分の妹であると偽ったので、彼女はゲラルの王アビメレクの王家に娶られた。神はアビメレクとその王家を罰したのだが、今回は彼の夢の中に現れて、サラには触れぬよう警告した。アビメレクはサラをアブラハムに返すと、贈り物を送るだけでなくゲラルでの滞在を二人に勧めた。その返礼としてアブラハムは、アビメレクの平安、とりわけこの度の罰によって不妊となってしまった王家の女たちの回復を神に祈願した。すると神がそれに応えたので、女たちは子供を生むようになった。
    イサクの誕生: サラは90歳のとき、幸福に満たされながら、まさに約束された日取りにイサクを産んだ。しかし彼女はイサクの地位を確かなものとするために、ハガルとイシュマエルを一族から追放するようアブラハムに願い出た。それは、イシュマエルにアブラハムの跡を継がせたくないという当然の主張であった。アブラハムはこの件に関して心を痛め、神に助言を求めた。しかし神は、サラの望みどおりに計らうようアブラハムに命じた。こうしてハガルは荒野へ追放された。
    サラの死: サラは127歳のとき、キルヤト・アルバ(ヘブロン)で死んだ。アブラハムはヘト人エフロンから畑を買い取り、そこにあったマクペラの洞穴に彼女の亡骸を埋葬した。

    壷ロゴ ウェッジウッド社が 一番いい仕事をしていた時代に 初代ジョサイアの誇り 英国国宝ポートランドの壷をロゴに!!!  
    WW アストバリーブラック ピオニー (6
    当店
    完全英国製 MADE IN ENGLAND 壷ロゴ
    ウェッジウッド 神聖 不可侵の 美術手工芸品
    現在では この3拍子(英国製素磁 壺ロゴ ライズドゴールド英国絵付)そろった銘品は作れません。
    この期間を過ぎますと 希望小売価格になります。 

    ちなみにお熟成アインは もうどこにもない新品に 次のウェッジウッド・ロゴを使い分け表示しております。

    1.完全英国製 MADE IN ENGLAND 壺ロゴ
    2.完全英国製 MADE IN ENGLAND ロゴ
    3.完全英国製 MADE IN ENGLAND 記念ロゴ(1995年 初代ジョサイア・
    ウェッジウッド没後200周年記念発表作)
    4.完全英国製 MADE IN ENGLAND 花Wロゴ(2000年 ウェッジウッド 誕
    生240年オーバー 記念限定作)
    5完全英国製 MADE IN ENGLAND  新金ロゴ .
    6.英国製 ENGLAND 1759 ロゴ(英国製 Made in UNITED KINGDOM)
    7.ENGLAND 1759 ロゴ

    さてみなさん ウェッジウッド には 制作年代と 仕事内容で 大まかにこれぐらいのロゴがあるのですよ。
    同じシリーズでも ロゴの違うものがありますが 総て意味があります。
    ロゴを見ないでロゴの当てられる人は すごいウェッジ通です。  

    WW アストバリーブラック 他店ロゴ
    一般店 ロゴ 東南アジア製素磁  

    漆黒のブラックに 22.8カラットゴールドを
    惜しげもなく ライズドゴールド(盛金)で ギルディング
    8回の焼成を重ねて完成する ウェッジウッドの 最高峰制作品
    今作の 東南アジア製素磁に 22Kを置いたものではありません。

    地上に 最後の 壷ロゴ 新品 一客



    ご安心ください。
    お熟成洋食器店アインには 一昔もっと前の いい仕事をしていた銘品が まだございます。
    ウェッジウッド,ロイヤルクラウンダービー,ロイヤルドルトン,ミントン,
    スポード,ロイヤルアルバート,ロイヤルウースター,エインズレイ等々 英国製の花盛り。
    勿論 新作手工芸の原点回帰作品も 厳選して お取り揃えしておりますから ご安心を!!

    「欧州磁器戦争史 (ウェッジウッド 1,2,)」 詳しくは コチラをクリック してください。




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